旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館(佐世保市民文化ホール)と第二特務艦隊。前編

      2017/03/29

佐世保市街地から佐世保橋を渡って次のバス停。市営、西彼バスの元町・市立総合病院前バス停そばに、瀟洒なたたずまいの鉄筋コンクリート二階建ての建物があります。

旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館、佐世保市民文化ホールです。

1923年(大正12年)九州、四国各県の多くの民間の人々の寄付金8万6千円で建設されており。先の大戦中には海軍の催しものや戦死者の合同葬などがここで営まれ、多くの人が笑い涙した場所でもありました。戦後、米軍に接収され、米軍管理のもとダンスホールや映画館として使用されていましたが、1982年(昭和57年)に日本に返還され、現在では佐世保市民文化ホールと名を変え、市民の催しや集会、音楽の練習場、変わった所ではコスプレの撮影会等にも使われ、現在でも多くの市民に愛され親しまれています。

1997年(平成9年)国の有形登録文化財建造物として指定されており、2016年(平成26年)には日本遺産の構成資産の一つとして認定されています。以前は白亜の建物でしたが、平成26年3月から平成27年7月までの整備工事で建造当時の姿に復元されています。

「凱旋」との名前がつけられています、凱旋とは戦いに勝って帰ること。ですがこの佐世保の凱旋記念館は何の戦いからの凱旋なのかを知る市民は少ないのではないでしょうか?

日露戦争?太平洋戦争?いえいえ実は1914年当時締結されていた日英同盟により大英帝国(イギリス)の要請を受けた大日本帝国は、”第一次世界大戦”に連合国軍側として参戦し、佐世保から欧州地中海に派遣され、イギリス軍から地中海の守護神と称えられた「第二特務艦隊」の凱旋を記念してこの施設は建設されています。

マルタ島バレッタ港での第二特務艦隊 中央は旗艦「出雲」

第一次世界大戦は1914年から1918年の4年に渡って繰り広げられた当時の世界の先進国とその植民地をも巻き込んだ人類史上初の世界大戦です。

当時、地中海はオーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国等が率いる中央同盟国軍のドイツ軍潜水艦Uボート25隻以上を含む同盟国海軍潜水艦部隊による無制限潜水艦戦によって、フランス、大英帝国等が率いる連合国軍艦艇は将兵や物資を輸送する輸送艦のみならず、無関係な多くの商船なども撃沈されている状況であり、その被害は1916年後半のたった半年間で256隻にも及んでいました。

そういった状況のもと、佐世保を出港した第二特務艦隊は1917年4月17日、地中海の”長靴”イタリア半島の爪先の南にある小島、マルタ島バレッタ港に到着しそこを根拠地として、輸送艦の護衛任務をスタートさせました。

5月4日、イタリア半島の西側の根元にあるサヴォナ沖で、第二特務艦隊所属の「榊(さかき)」と「松」が護衛するイギリスの大型客船「トランシルバニア」が護衛も空しく敵潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈されてしまいます。この攻撃が日本海軍が初めて経験する対潜水艦戦となりました。

当時、潜水艦を発見するには海面上ごく僅かに顔を出す潜望鏡を見つける、それ以外に潜水艦を探知する術はありません。全く見えずどこから攻撃してくるかわからない未知の敵との戦いです。しかも潜水艦による攻撃で沈みかかった船の近くで船員の救助活動している船に対し、敵潜はさらに魚雷攻撃を仕掛けてくる為、潜水艦のいる海域では救助活動は行えないというのが当時の常識だったそうです。

しかし榊と松は駆けつけたイタリア駆逐艦2隻とパトロール船2隻の協力もあり、乗員3266名の内3000名以上を救助しています。撃沈された割に大部分の乗員が救助されたとても珍しいケースで当時世界的なニュースとなったそうです。

駆逐艦「榊」船腹に艦名が見える

 

イギリス国王ジョージ5世はその人命救助の功績に対して、日本海軍乗組員に勲章を授与しています、さらにイギリス下院では、日本海軍との協同作戦とその功績を報告した際には議場は歓呼と拍手につつまれ、その中でどういうわけかある議員が「バンザイ」の日本語を知っており、バンザイと叫んだら一同もバンザイと唱和するほどの興奮ぶりだったと記録されています。

本日はここまで、榊と松そして第二特務艦隊は無事佐世保に帰還できるのか。次回後編をお楽しみに。

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