旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館(佐世保市民文化ホール)と第二特務艦隊。後編

   

日本遺産にも認定された佐世保市の市民文化ホール、かつてこの建造物は佐世保鎮守府凱旋記念館と呼ばれていました。この記念館が建てられる事になったきっかけは、第一次世界大戦の最中Uボートの脅威渦巻く地中海へ、この佐世保から出港した第二特務艦隊の活躍によって建築されたという話は前回お話したとおりです、さて、当時の多くのイギリス国民、そして世界中が知る事になった第二特務艦隊のその後をご紹介します。

1917年(大正6年)5月29日、第二特務艦隊所属の駆逐艦「榊(さかき)」と「松」は根拠地マルタ島バレッタ港を出港しエーゲ海へ派遣され、英軍病院船「グルカ」とP&O社商船「モルタ」の護衛任務を終えて、6月11日(ミロのビーナスで有名な)ミロ島へ入港。

数時間の停泊の後、ギリシャ南端ペロポネソス半島とクレタ島の間の海峡、アンチキセラ海峡を通過するため海峡の入り口に差し掛かった時にそれは起こりました。もやが広がり視界の悪いエーゲ海を進む「榊」の見張り員が左舷すぐそばの海面に潜水艦の潜望鏡を発見、その距離約200m、「左舷に敵潜望鏡近し!!」と警告するも時すでに遅く、敵潜の魚雷は「榊」の前部火薬庫に命中、大爆発を起こし艦首は粉々に吹き飛び、その衝撃で艦橋が後方に倒れ、第一煙突が潰れ甲板が90度上にめくれ上がるという甚大な被害をこうむりました。この雷撃で艦長、機関長を含む59人が戦死、しかし艦の3分の1が喪われながらも沈没を免れたのはまさに不幸中の幸いでした。

これを見た僚艦「松」はすぐさま敵潜への反撃に動きます。魚雷の発射点付近に敵潜の航跡らしき物を発見し、以前の任務サヴォナ沖海戦の際には搭載していなかった対潜水艦用の最新兵器、爆雷を使用。帝国海軍初の実戦での爆雷攻撃を実施します。見た目は小ぶりのドラム缶ですが、水中で爆発すれば直撃でなくても衝撃波が潜水艦を破壊します。

連続投下された爆雷は大きな水柱を上げ、戦果は確認できなかったがそれ以降の攻撃はありませんでした。

その後SOSを受信した英駆逐艦「リッブル」が救援に駆けつけ「榊」の負傷者の救助を開始、後日「リッブル」艦長は「彼ら負傷者は誠に天晴れなるものにして、終始傷の痛みを一言も呻吟せず、苦痛も訴えなかった」と手紙に残している。日本の軍医や看護兵の記録にも、彼ら負傷者達は「これくらいの負傷でへこたれては佐鎮(佐世保鎮守府)男児の恥だぞ、しっかりしろ!」と励ましあっていたと記されています。

さて、甚大なるダメージをこうむった「榊」をこの後どうするかで現場の日、英の海軍士官の意見が分かれます。「リッブル」のエリオット海軍少尉は「当海域は未だ敵潜水艦の存在する可能性が極めて高く、生存者の移乗後サカキの放棄、海没処分を進言する。この件に関し同意頂けるか?」と述べ、これに対し、「榊」の指揮を執っていた吉田大尉は軍艦旗を指さし「NO」と拒否、本艦は未だ戦闘旗を掲げており放棄はしない、との意思を示します。エリオット少尉は吉田大尉の意図を理解し「榊」はリッブルに曳航されその日の深夜、無事クレタ島のスダ湾に入港しています。その後「榊」はギリシャのピレウス造船所で修復され、任務へ復帰には一年あまりの時を要しています。

左のHの艦は「松」中央に「榊」右には英の工作艦

 

任務に就いて数ヶ月、最も険しい戦局を体験した第二特務艦隊は、その後348回もの輸送護衛任務を遂行し、第二特務艦隊の駆逐艦の出動率は72%と計算され、イギリスの60%、フランス・イタリアの40%と比べるといかに休む間もなく任務に就いていたかがわかります。この出動率は地中海を航行する船の船長の多くが「”地中海の守護神”日本の艦艇が護衛しないのなら出港しない」とまで言っていたという逸話とともに、それだけ日本艦隊に寄せる信頼が厚かった証拠なのではないでしょうか。

日本艦隊の輸送艦護衛任務によってUボートに撃沈されることなく無事戦地に到着した陸兵はその後大陸での戦局を盛り返し連合国軍の勝利に繋がったとの歴史家の分析もあるように、第二特務艦隊は第一次世界大戦の勝利に大きく寄与したと言われています。

1918年(大正7年)11月11日 第一次世界大戦 休戦

そして

1919年(大正8年)7月18日 第二特務艦隊 佐世保へ帰還

日本から遠く離れた第二特務艦隊の根拠地であったマルタ島、バレッタ市カルカーラ地区にある英連邦戦没者墓地の正門を入った突き当たりの墓地の中で最も良い場所に、地中海における「榊」の戦死者を含む71名の英霊が祀られている「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」が海戦の1年後、1918年(大正7年)6月10日に竣工、翌11日に納骨式が行われ、現代でもそのお墓は綺麗に手入れがなされており、日本人、そして佐世保市民としても感謝の念を禁じえません。

そして実はこの佐世保でも第二特務艦隊を顕彰した碑があるのをご存知でしょうか?佐世保湾を望む高台にある東山海軍墓地、その中の小高い場所、大きな東郷平八郎長官の像の背中側に「第二特務艦隊陣没者之碑」がこちらも大変綺麗に維持管理がなされ、今日も美しい花々が手向けられています。

さて、佐世保市民文化ホール、佐世保鎮守府凱旋記念館がどのような経緯で建築されたのかこれでお分かりいただけたのではないかと思います。

かつての大日本帝国が第一次世界大戦に参戦していたという事実を現代日本人はほぼ知らないのではないでしょうか、これをきっかけにご自分で色々としらべてみると、南洋のパラオ共和国がなぜ親日なのかなど、関連する他の事柄にも気がつく事があるはずです。私達のご先祖様が世界の中でどのように歩んでこられたのかを知るのも、今を生きる日本人である我々の責務なのではないでしょうか?

今日もにゅ~ぺとりをご覧頂きありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

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