今日は日露戦争開戦の日。
2018/07/06
113年前の1904年(明治37年)2月8日は日露戦争開戦の日でした。
当時の世界の覇者、大英帝国に次ぐ実力と世界最大の国土を持つ「帝政ロシア」と
主要産業は生糸のみ!明治維新からわずか40年足らずの新興国「大日本帝国」が
中国東北部、満洲と朝鮮半島の権益を争った戦いです。
教科書や司馬遼太郎の著作「坂之上の雲」でご存知の方も多いかと思います。
その10年前の日清戦争で当時の中国である「清」と戦い勝利した日本でしたが、
その直後、露独仏の三国干渉によって獲得したばかりの遼東半島を返還せざるをえず、
”臥薪嘗胆”をスローガンに権益の復旧を誓います。
対する帝政ロシアはその国土の宿命から、冬に凍らない港、不凍港の確保を渇望し、
オスマン帝国とのクリミア戦争を戦うが、英仏の支援を受け黒海沿岸のセバストポリ要塞を
失陥。クリミア戦争はオスマン帝国の勝利に終わりました。
西方での不凍港の確保に失敗した帝政ロシアは一転、東へと目を向け、清より獲得した
沿海州の半島にウラジオストック(ロシア語で「東方の征服」の意)の街を建設、
さらに三国干渉で日本が手放した遼東半島の旅順、大連を弱体化した清から租借して、
清の内戦である北清事変の混乱に乗じて満洲全土を支配下に置き、
その上、日本の想定最終防衛ラインである朝鮮半島北部へと軍を進め、
その勢いは止まることを知らず、大日本帝国は危急存亡の秋(とき)を迎えます。
2月3日、ロシア旅順艦隊が出撃、そのまま行方をくらました事をきっかけに、
翌日、閣議によって国交断絶が決定。露ローゼン公使に通告され、
ここに1年7ヶ月に渡る決戦の火蓋が切られたのであります。
私の町佐世保では、もちろん当時の帝国海軍連合艦隊旗艦「三笠」率いる第一艦隊からなる
主力部隊が一路旅順へ向け出撃していますが、実は帝国陸軍も共に佐世保から出撃しています。
佐世保の南にある早岐瀬戸。一見川に見えますが実は針尾島との境である海であり、
その近くには勝海町という名の町があります。
セブンイレブン佐世保勝海町店に近い川の曲がり角に「一丁突き出し」と呼ばれる突堤が
現在もありますが、明治37年2月4日夜、先発隊として大村46連隊、小倉47連隊
福岡24連隊からなる第12師団木越旅団がそこから出撃し、海軍艦艇に便乗して朝鮮半島
中西部「仁川」に上陸を成功させており、ここから来年3月1日奉天会戦までの帝国陸軍の
快進撃が始まります。
戦勝後、一丁突き出しの袂に記念碑が建立され、町の名前も勝ち戦の出撃地として
「勝磯」と名づけられましたが、大東亜戦争敗戦の折、米軍に記念碑は取り壊され、
町の名前も「勝海町」と改名し、「勝磯」の地名は現在ではバス停に残るのみ
となっています。
しかし占領軍撤退後、新たに記念碑が建立されて現在一丁突き出しにあるのはその新しい
記念碑であるとの事。
最後に先発隊第12師団木越旅団を率いた木越安綱陸軍中将がその後残した歌を紹介して
筆を置く事にします。
さきがけて 日露の役(えき)に船出せし
誉れを世々に 残す勝磯
最後までご覧頂きありがとうございました。